瑞雲寺だより(第8号)

言葉の力

 3月1日の日に、修験宗の愛敬院へ弟と一緒に参拝に行った。参拝して本堂の裏手に五輪の塔があり、一番上の石が取れるようになっていた。境内の掲示板によると五輪の塔の石を右に三回「重くなれ重くなれ重くなれ」と唱えて持ち上げると石が重くなり、逆に左に三回「軽くなれ軽くなれ軽くなれ」と唱えて持ち上げると軽くなるという。やってみて重くなったり軽くなったりしたら願い事がかなうといわれている。この五輪の塔に関しては以前全国放送され私もいつか行ってみたいと思っていた。


愛敬院の山門


 とうとう実行の日が来た。本堂の前のお賽銭にお金を入れ合掌、裏手に回ってその五輪の塔があった。


重くなったり軽くなったりする五輪の塔

 五輪の塔の前で合掌し、五輪の塔の石を右に三回「重くなれ、重くなれ、重くなれ」と唱え持ち上げた、ウッ!結構重い。次に左に三回「軽くなれ、軽くなれ、軽くなれ」と唱え持ち上げてみた、驚くなかれ、ポーンと持ち上がっのだ。私は実行する前、石は動物じゃあるまいし重量は変化するはずがないと疑っていた。疑っていたにもかかわらず。確かに重くなったり、軽くなったりしたのだ。これはやってみないとわからない。私は暗示によるものだと考えるのだが、この五輪の塔の石を通じて大切なものを教わった。それは言葉に力があることを。暗示や催眠術にかかりにくい人というのは疑りぶかい人が多いと聞いたことがある、今回わたしも正直言って疑っていた。疑っていたにもかかわらず、石が重くなったり軽くなったりした。(疑っていても暗示にかかってしまうことがあるようだ)
 仙台の古本屋で購入した「水は答えを知っている」という本には、水にやさしく言葉をかけ冷凍庫に凍らせて結晶を見たらすばらしい形(六角形)になり。逆に水に「馬鹿野郎」というきたない言葉をかけたものは結晶が崩れて無残な形になっていたという。これは言葉のあたえる影響がいかに強いか証明している。
 曹洞宗に修証義というお経がある。この修証義の第四章に『愛語といふは、衆生を見るに、まづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子(じねんしゅじょうゆうにょしゃくし)の懐い(おもい)貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃(ほ)むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、むかいて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、むかわずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく廻天の力あることを学すべきなり。』佛教読本の解説によると『「愛語」とは好ましい言葉、愛される言語、という意である。やさしい言葉を用いて話すことで、それにより親愛の情を増し、仏道に近づくのである。ことばは、心に思うことを、相手に伝えるために表現するものである。それゆえ、言葉は心をうつし出すものともいうことができる。善い心のものは、善い言葉を用い、邪心のものは悪い言葉づかいになるのは当然のことである。しかし同時に言葉は、意思を表現する手段でもあるから、心にもないことも言える、故意に偽りをいうこともできるのである。・・・・・言葉は心の鏡であり、あやつり人形のようなもので、用いる人の心が大切である;ことは明らかな事実である。不用意・無責任な、その場限りの言葉が、どれほど大きな影響をもたらすかを考えるとき、私たちは、平生の心構えの重大さを、改めて考えねばならない。「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」の語を、この機会に深く味わいたいものである』
(※廻天の力とは天体の運行を逆転させるほどの力の意であるが、ここでは、天子の命令、勅命をも翻させるほどの力もあることを言ったもの)
 
 引用がだいぶ長くなってしまったが私が今回石を持ち上げ体が反応することがわかって思ったことは廻天の力に及ばないまでも言葉に力があるということ、そして否定的な言葉を使って毎日を過ごすより肯定的な言葉を使って過ごすことのほうが周りの人にとっても自分にとってもよいのではないかと考えさせられた1日であった


私ではありません弟です

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