旗立て石 丸森町大張宇賀石宇賀神
旗立て石 丸森町大張宇賀石宇賀神

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町の地図を見ていると、いつも気になる地名があります。その地区の名は「大張川張宇賀石宇賀神」ここには、旗立て石という巨石があるところです。「ふるさとの伝説」では、旗立て石の紹介はあるものの、詳しい場所までは載っていませんでした。いつまでも本を読んでいてもしようがありませんので、実際に行ってきました。大張の道は、地図を見ても自分の車がどこにいるのかわからなくなる地域で、案の定、道に迷ってしまいました。ぐるぐる同じ道をまわって疲れてしまったので、地元の方に聞くことにしました。1軒目から3軒目の方は一度も行ったことが無いためわからないとの事、4軒目でやっと、旗立て石のわかるSさんに出会いました。早速Sさんを車に乗せて案内をして頂きました。Sさんに出会ったおかげで旗立て石、宇賀神の祠、長者屋敷跡、鐘突き堂山などの裏話を聞くことができて大変勉強になりました。

●旗立て石の周辺には鐘突き堂山・長者屋敷跡・宇賀神の祠があり、源頼義、義家親子に関する言い伝えがあります。

「昔、福島県の霊山に安倍一族の武将で橘墨虎という者が住んでいた。近郷近在の村々はすべて墨虎の配下で、この川張宇賀神に住んでいた長者もその一人であった。永承年間、安倍一族を成敗するために源頼義、義家親子が大軍を率いて陸奥にやってきた。

橘墨虎は、これに対抗するため配下の村々に命を出し戦の準備をさせた。この時宇賀神の長者も砦を築き、長者屋敷近くの大岩に穴を空けて旗立て石とし、宇賀石にある小山に鐘突き堂を造った。旗立て石も鐘突き堂も、霊山にいる墨虎との連絡合図に供するためといわれている。また、霊山の日吉山王権現の使いである猿たちを連絡に使ったともいわれている。

このように、どの村も動物まで駆り出して村人が一致団結し頼義、義家軍を迎え撃ったので、墨虎軍を破ることは容易ではなかった。何ヶ月かの戦いの後、頼義、義家軍は各地を逃げ回る墨虎を霊山向かいの山(虎捕山山津見神社・虎捕洞)にて討ち取り、奥羽を平定した。

平定後、村々を見て歩くと、どの村にも合図をするための旗立て石や鐘突き堂が造られていた。苦戦を強いられた原因に、完璧な連絡網があったことを知り驚いたという」(ふるさとの伝説より抜粋)

向こう側の道は県道105号線(大張小学校がある道路)に合流します。

宇賀神の長者屋敷跡。案内して頂いたSさんのお話によりますと、終戦後、長者屋敷の石垣があったのですが、取り壊してしまったそうです(この土地はSさんのです)。そのとき、瀬戸物のかけらが出たといっていました。また、綺麗な水が湧き出す井戸もあったのですが埋めてしまったそうです。埋めた後も、水が湧き出ているためか、湿地帯になっています。
宇賀石宇賀神の地名の語源となった宇賀神の祠。宇賀神(うかのかみ)は食物を司る神様で、古事記では宇迦之御魂神とあり、日本書紀では倉稲魂神の名で出ています。なお、宇賀石宇賀神の地名は日本でも珍しく、広島県甲奴郡甲奴町大字宇賀、滋賀県酒田郡近江町大字宇賀野などが知られています。
砂利道を進んでいきます。
木々の間に見えるのが、旗立て石です。自分が想像していた位置と全然違うところにありました。やっぱり人に聞くというのは大事ですね!
御歳88歳のSさん。登るのが早い!ついていくのに精一杯でした。
これが旗立て石です。現在、松の木が茂って見通しが悪い所ですが、松の木が茂る以前は正面遠方に霊山を眺めることができる場所だったそうです。
旗立て石の上部。
この穴に旗を立てたと思われます。まるもりの伝説によりますと「上は畳三畳敷位の広さで二個の穴が空いています。」とありますが穴らしい穴は一個しか確認できませんでした。
旗立て石と記念撮影。
宇賀石の鐘突き堂山周辺から見た、霊山方面の山々。Sさんのお話によりますと、明治まで、ここの地区の方達は霊山まで行って元朝参りしたそうです。距離にして七里(約28km)を日帰りしたそうです。今では考えられません!
Mapion
ホイホイ石同様、非常にわかりずらい場所にあります。
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