大満古天 丸森町筆甫鷲ノ平
大満古天 丸森町筆甫鷲ノ平

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の鷲ノ平に「大満古天」と彫られた石碑があります。当初、ふざけて字を彫ったのかと思っていましたが、色々調べていくうちに、この地区の人々の切実な願いが込められた石碑であることがわかりました。

昭和55年1月1日発行「広報まるもり」町史こぼればなしより抜粋

「道ばたなどで、苔むした地蔵尊や庚申塔などが、よく目にとまる。それを建てた人々には何を祭り何を祈願したのであろうか。路傍の碑は、その背景を秘めているのである。

町史編さん室で、町全域に亘って踏査したら、その数約一千八百基に及んだ。

その中で、日本最初・・・の珍しい碑が三基あった。初めはそれが何であるか、かいもく見当もつかず鳩首した。一つは筆甫の鷲ノ平に、他は丸森や大内にあった。いずれも幕末の、文政七年(1824年)・天保・弘化年間の建立である。

幕末は、不幸にも毎年のように凶作で、それは幕府の崩壊を早めた一因でもあると、いわれている。特に宝暦・天明・天保年間の飢饉は、惨烈を極めた。

天保七年には七月までに、筆甫村で三百人ばかり、丸森村で二百六、七十人は餓死したと、羽出庭のいちご原の人た書き残している。

また、別な古文書によると、(1779年)に一千九十一人であったのが、天保十一年(1840年)には、なんと四百五十人にも激減している。

鷲ノ平もその渦中にあったに違いない。部落八軒(現在十四戸)は、何年たっても中々子供が生まれないし、分家も出なかった。そこで近くの聖人さんが、これは弁天様だ、これを拝めば人も増え、財産も殖え、また魔除けにもなると言って碑を建てた。

人々は朝な夕な切なる思いで祈ったと、古老は語っている。今でも部落民は、弁天様と信じている。

碑にいわく、「日本最初、大満古天」と。それは、今より百五十五年前の増殖神、女性の○○○を文字化したものと推定されたのである。

                   町史編さん専門委員 八島孝男」


「人は見た目で判断してはいけない」とよく言いますが、石碑の文字が変だからと昔の人はふざけていたのかという先入観でものを見ていた自分が恥ずかしく感じました。鷲ノ平の「大満古天」に限らず石碑が建てられた背景・年代・当時の人々の思いを感じ取ることが、丸森を理解する一歩になるのではないでしょうか。


見た感じ普通の石碑のように感じます。右の石碑は庚申供養塔。
近づいて文字を読んでみると・・・
「日本最初 大満古天」丸森町内にはあと二つあるそうです。
文政七(1824年)年十月十日に建立されました。
日の光を浴びる大満古天。
Mapion
「大満古天」の碑近くには、鷲平観音堂の道祖神岩岳イボ石など見所があります。
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